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警視庁で鑑識ノウハウ36年の熱血漢がタイへ渡った
警視庁で鑑識ノウハウ36年の熱血漢がタイへ渡り
  証言主義から証拠主義へタイ警察の捜査方法をかえた日本人の熱い物語
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戸島国雄『タイに渡った鑑識捜査官』(並木書房)
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 副題は「妻が呉れた第二の人生」とある。このサブタイトルが想像させるのはシニアの海外での貢献、社会に最後まで奉公したいという犠牲の精神、ボランティアの心情だろう。まして最愛の妻に先立たれ、日本にいても寂しく、新しい人生を海外にもとめた動機はよく理解できる。

 著者の履歴を閲覧して驚いた。
 「最初の警視庁鑑識の仕事が三島事件」だったというではないか。
人づてに聞いたところでは、担当は写真係、じっさいに三島由紀夫と森田必勝の割腹現場に入った。そこに駆け付けた川端康成を誰だか知らずに追い返したという逸話の持ち主の由。
1960年に自衛隊へ入隊し、65年に警視庁へ。1970年に警視庁鑑識課配属となる。
遭遇した事件は数多く、なかでも上記三島由紀夫切腹事件、三菱重工爆破事件、日航機墜落事件等々。現場に足を運び、写真をとり、証拠を積み上げていく。
定年後、勇躍して応募したのがJICAのタイ警察の鑑識技術向上のためのシニア派遣。

なにがタイ警察を変えたか

日本での鑑識36年のノウハウが、タイの警察捜査の証言主義から証拠主義への転換を生んだのである。江戸から明治にかけて、日本は証言主義から証拠主義へ移ろうとしながらも、なかなか警察の捜査近代化は遅れた。そのノウハウの蓄積から、タイへの指導教官としての赴任。タイでもいろいろな事件に遭遇し、命拾いをしたことも強盗に襲われて逆襲したことも(この逸話は面白い)あった。

著者はいきなり「大所高所」から証拠主義のノウハウをタイ警察に教えようとはしなかった。
「少ない預金から個人の財産を下ろして、鑑識作業に必要な資財を買い込み、夜遅くまで現場で使う標識や証拠品を採取する資機材を作る」という手作業、その誠意にタイ人が動き出したのだ。
こういう熱血漢、それもシニア(引退組)の日本人がいることに名状しがたい安堵感を覚える。

〜〜〜〜〜
(C)(有限会社)宮崎正弘事務所 2001−11 ◎転送自由。転載は出典明示。
| 公務員 | - | - |
沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)
■ Japan On the Globe(651) ■ 国際派日本人養成講座 ■

人物探訪:沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(上)

戦火の近づく沖縄から県民を疎開させようと、警察部長・荒井退造(たいぞう)は奮闘した。

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■1.20万県民を救った二人の島守(しまもり)

大東亜戦争末期、戦場となった沖縄で、一人でも多くの県民を助けようと苦闘し、県民から島守(しまもり)として讃えられた二人の官僚がいた。沖縄県知事・島田叡(あきら)と警察部長・荒井退造(たいぞう)である。

二人は20万人の県民を県外、および県内北部の安全地域に疎開させた。当時の60万県民の三人に一人はこの疎開によって、命を救われたと言える。

しかも、沖縄戦の直前、本土に逃げ帰った同僚部長もいるなかで、荒井は警察部長として県民疎開の陣頭指揮をとり、島田に至っては米軍攻撃のわずか2カ月前に、死を覚悟して県知事として沖縄に乗り込んだのである。今回は、この二人の生き様を追ってみたい。


■2.県民疎開の緊急閣議決定

荒井が沖縄県警察部長として着任したのは、昭和18(1943)年7月、42歳の時だった。国内や満洲の各地で主に警察畑を歩んできた荒井は、南国の明るい風物に触れて、この赴任を心から喜んだ。

しかし、戦況は南のガダルカナル島敗退、北のアリューシャン列島アッツ島守備隊の玉砕などが続いており、荒井は任地の沖縄について、「国土防衛の前進基地となっているから、まづ防空に全力を尽くしたい」と覚悟を語った。

1年後の昭和19(1944)年7月7日夜、政府は沖縄県民の60歳以上と15歳未満の老幼婦女子を本土と台湾へ集団疎開させることを閣議決定した。この日、サイパンが陥落し、守備隊約3万1千の玉砕とともに、在留邦人1万2千も運命を共にした事から、沖縄でも同様の事態になることを恐れたのだった。

県民疎開を発案したのは参謀本部だった。戦場に多くの住民がいては、被害を大きくするだけでなく、住民を守るために軍は本来の戦闘力を大きく削がれてしまう。戦場となる地域からは極力非戦闘員を避難させることが、軍事的常識であった。

また当時、沖縄は年間消費米38万石(5万7千トン)の3分の2を台湾や他県からの移入に頼っていたので、沖縄での戦闘が始まり、海上輸送が途絶すると、県民の食糧補給が困難になる、との事情もあった。

しかし、県民の方は迫りつつある戦火を感じながらも、まだ島内は平和であり、しかも年寄り、女子供だけが身寄りもいない土地に行く不安の方が大きかったので、疎開気分は一向に盛り上がらなかった。県民疎開の責任者を命ぜられた荒井は、全署に対して、講演会や家庭訪問を通じて、疎開の必要性を説け、と指示した。


■3.「お父さーん、さようなら!」

さらに荒井は警察官や県庁職員の家族を率先して疎開させることで突破口を開こうとした。激戦が始まったら、後顧の憂い無く任務の遂行に挺身するためには、まず家族を安全な所に疎開させなければならない、という考えもあった。

ようやく7月21日、疎開第一船「天草丸」が警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出発した。警察部輸送課長・隈崎俊武警視(当時42歳)の妻と5男2女もその中にいた。当時、6歳で国民学校一年生だった4男・勝也は、当時の状況を鮮明に覚えている。[1,p73]
追い立てられるような、慌ただしい旅立ちだったと子供心に記憶しています。その日、一張羅を着せられ、まだ新しい帽子をかぶり、ランドセルを背負い、新品の革靴姿でした。

母は乳飲み子と3歳の妹をつれ、兄や姉は持てるだけの荷物を持って、那覇港に行きました。埠頭(ふとう)は乗船する家族連れ
見送りの人たちで一杯で、父も見送りに来ていました。
タラップから乗船し、船が動き出すと、「お父さーん、さようなら!」「おきなわ、さようならー」との大声が飛び交い、皆ちぎれんばかりに手を振った。幼い子供たちにとって、これが父親との最後の別れになるかもしれない、という事は分からなかったろう。


■4.「対馬丸」の悲劇

敵の潜水艦を避けるために、船は動いては止まりの繰り返しで、鹿児島に着くまでに2週間もかかった。

ある日、黒く長い物が水面すれすれに、ジャブジャブと泡を立てながら、船体をかすめていった。「わぁーっ、大きな魚だ」とはしゃぐ勝也少年を、同乗していた叔父さんが「じっとしなさいっ」と叱りつけ、ぎゅっと体をつかまえた。それは敵潜水艦の魚雷で、天草丸は間一髪で助かったのだった。

そばにいた船員たちも真っ青になっていたが、この件は、乗客を心配させまいと、秘密にされた。

しかし、そのすぐ後に心配は現実となる。8月5日に学童825人、一般疎開者836人を乗せた「対馬丸」は、鹿児島の南西260キロの海上で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、助かったのは177人だけだった。非戦闘員を運ぶ船舶への魚雷攻撃は、戦争犯罪である。

名護署に勤務していた国吉真成(しんせい)警部補の妻と6人の子も犠牲者の中にいた。沈没は軍事機密として公表されなかったので、家族を失った国吉警部補は悲しみを包み隠して、疎開作業を進めなければならなかった。

荒井もつらい思いをしながらも、一人でも多くの県民を救うためには、この悲劇を乗り越えて県外疎開を実施しなければならなかった。結局、昭和19(1944)年7月から翌年3月までに出航した延べ187隻の疎開船が約7万3千人を運んだが、遭難したのは対馬丸だけだった。


■5.県庁トップ二人の疎開妨害

荒井の職務をさらに難しくしたのは、県知事の疎開反対だった。知事は新聞記者や議員に疎開反対の言辞を漏らし、それがために「引き揚げは知事の意に反して、警察部長が独断で進めている」との県幹部の中で噂が飛び交い、荒井は県会に呼び出されて、議員の追求まで受けた。

知事は反対の理由について「年寄りや女、子供を言葉や風習の違う本土に行かせるのは可愛そうだ」などと漏らしていたが、当時の状況では説得力はなかった。

そんなところから、「知事は戦火が迫る沖縄から他府県に逃げ出したいのだが、疎開で騒然とした状況では動きにくいので反対しているのだ」と囁かれるようになった。

荒井が必死に県外疎開を進めている最中にも、知事は1カ月近くも東京出張をした。県民の中に「知事は他県への転任運動をしている」という噂が渦巻いているのを知ると、日記にこう書いている。「排斥ならいくらでもやれ。喜んでその排斥を受けるぞ。愚民どもめ。まったく沖縄はいやになった。」

副知事格の内政部長も、また荒井の足を引っ張った。日本放送協会(NHK)沖縄放送局からの県民向け放送の中で敵は絶対に沖縄に上陸しないことを確信します」と放言した。この放送は県民の間で大きな反響を呼び、せっかく盛り上がりつつあった疎開気運に冷や水を浴びせかけた。

実は、この内政部長も一刻も早く沖縄を逃れたいと思っており、いましばらく沖縄の情勢が平穏でなければ、転勤運動がやりにくいと考えていたのだ。そのために、荒井の疎開促進活動をぶち壊したかったのである。

後にこの内政部長は、東京に出張中に、無断で大分県の山奥の電話もない湯治場に「胃病の治療」と称して雲隠れするという行動をとった。

県知事、内政部長という県庁トップ二人の妨害に直面しながらも、荒井は一人でも多くの県民を疎開させるために奮闘を続けた。


■6.最初の大空襲

10月10日、米軍機による最初の大空襲が行われ、那覇市内の各所で火炎と黒煙が吹き上げた。知事は寝間着姿のまま、官舎の防空壕に飛び込み、市内の状況把握もしない。内政部長は上述の「出張中」で不在ということで、荒井一人が県庁で住民の避難誘導や消火作業の指揮をとった。

空襲の合間には、車で市内を回り、各所に派遣した警備中隊や警防団の様子を視察した。途中で敵機に目をつけられ、機銃掃射を受けたがなんとか振り切った。警察部長の命がけの視察を受けた警備中隊や警防団は、意気に感じて消火作業に努めたが、渦になって町を駆け抜ける猛火の前には、どうすることもできなかった。

県庁舎は焼け残ったが、知事は12キロも離れた普天間の地方事務所に逃れ、そのため県職員も重い書類や荷物を担いで、移動しなければならなくなった。

県民の間から「この重大な戦局のさなかに長たるものが逃げるとは何だ」と非難が巻き起こった。知事は数日後に県庁に姿を現したが、空襲警報が出るとまた普天間に逃げ帰るという有様で、知事の権威はガタ落ちとなった。

一方、荒井は「おれは普天間には行かんぞ」と、県庁で頑張っていた。官舎は全焼したため、近くの自然壕で寝泊まりして、県庁に通った。

沖縄に陣取る第32軍ももはや県知事や内政部長を相手にせず、すべて荒井を相手にするようになった。横穴壕造などの防空体制の強化、食料の増産、軍需供出と労務への対応、輸送力の確保など、すべてが荒井の肩にかかってきた。

その一方で、戦災で住む家は焼かれ、衣食は窮乏を極めたため、疎開を希望する県民が県庁に殺到した。空襲によって、荒井が今まで進めてきた疎開の正しさが、誰の目にも明らかになったのである。


■7.「島田君に当たってみてくれ」

第32軍司令部は、敵の上陸に備えて、さらに老人、児童、婦女子を県北部に疎開させる計画を立てた。北部は山岳森林地帯で、戦場となる可能性は少ないからである。

しかし、I知事は「山岳地帯で、耕地もない北部へ県民を追いやれば、戦争が始まる前に飢餓状態が起きる」と反対した。と言って、県民保護のための対案を示すわけではない。

第32軍司令部はサイパン島で起きた在留邦人玉砕の悲劇を何とか避けたいとの思いで立てた計画だけに、「県民を救おうという案に対して、県知事が何をほざくか」と怒り心頭に発した。

そこで沖縄に戒厳令を敷き、行政権を軍司令官が掌握して、知事をその指揮下に入れてしまう、という強攻策を検討し始めた。そんな事をされては面子が立たないと、内務省は慌ててI知事の更迭を決断した。

しかし、問題は後任探しだった。戦場になることが目に見えている沖縄である。3、4人の候補者を挙げたが、どれも知事にはなりたいが、沖縄ならご免という者ばかりだった。

そこに第32軍司令官の牛島中将から「島田君に当たってみてくれ」と推薦があった。島田叡(43歳)は当時、大阪府の内政部長だったが、かつて上海総領事館の警察部長だった時に、牛島中将と親交を結んでいた間柄だった。


■8.「もちろん、引き受けてきたわ」

その打診が来たのは、昭和20(1945)年1月11日の朝だった。妻子3人と朝食のテーブルを囲んでいるところに、隣の知事官舎に住む池田清知事から「話があるから、ちょっと来てほしい」と電話があった。

やや長い時間が経ってから、島田は戻ってきて、持ち前の神戸訛りで言った。「沖縄県知事の内命やった」

妻の美喜子は全身の血が逆流するような思いに駆られ、「それで、どうお答えになったのですか?」と聞いた。島田は落ち着き払って答えた。「もちろん、引き受けてきたわ」

美喜子は驚いて、我を忘れて叫ぶように言った。「沖縄はもうすぐ戦争になるのでしょう。そんな所へなぜ、あなたが行かなければならないのですか。」

島田は答えた。[1,p140]
だれかが、どうしてもいかなならんとなれば、言われたおれが断るわけにはいかんやないか。おれが断ったらだれかが行かなならん。おれは行くのは嫌やから、だれか行けとは言えん。・・・

これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。おれが断れるからというので断ったら、おれもう卑怯者として外も歩けんようになる。
■9.命もいらず、名もいらず

島田の沖縄県知事任命は、翌12日、閣議決定され、即日発令された。

島田知事が沖縄に着任したのは1月31日。妻子とは大阪駅で別れたが、これが見納めになった。引っ提げたトランク2つの中には、愛読書の『西郷南洲遺訓』『葉隠れ』とともに、日本刀、ピストル2丁、そして自決用の青酸カリが入っていた。夫人には「死ぬと決まったわけやない」と言っていたが、覚悟の旅立ちだった。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。
此の始末に困る人ならでは、
艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり
とは、西郷隆盛の言であるが、敢然と沖縄に乗り込んだ島田についても、そのまま当てはまる。米軍の上陸は、わずか2カ月先に迫っていた。



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人物探訪:沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(下)

米軍侵攻を目前にして島民の北部疎開と食糧確保に二人の島守は全力をあげた。

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■1.「この長官は自分たちを捨てていかない」

島田は第27代沖縄県知事として、昭和20(1945)年1月31日、着任した。着任の挨拶では、相次ぐ空襲下での職員の苦労を労った後、

沖縄県は全国民の耳目を集めている。敵機の空襲を最初に受け、戦火の中を戦ったのだから、沖縄県から率先垂範し、全国民の士気を高揚させよう。無理な注文かもしれないが、先ず元気にやれ! 明朗にやろうじゃないか。[1,p157]

職員たちは、この長官は自分たちを捨てていかない、この人になら最後までついていける、と思った。

着任数日後に島田を訪ねた地元の有力者が「前知事は逃げてけしからん。知事さんも大変ですね」と言うと、島田はこう答えた。

人間誰でも命は惜しいですから、仕方がないですね。私だって死ぬのは怖いですよ。しかし、それよりも卑怯者といわれるのは、もっと怖い。私が来なければ、だれかが来ないといけなかった・・・。人間には運というものがあってね・・・[1,p160]

ちなみに、前知事は更迭時には「現地軍から要請のあった県内疎開を協議する」との名目で上京中で、そのまま香川県知事に転出し、昭和59(1984)年に86歳で亡くなるまで、二度と沖縄の土を踏むことはなかった。「卑怯者」と呼ばれることを恐れながら、長い余生を生き続けたのかもしれない。


■2.2ヶ月で9万人の疎開計画

着任8日目に、第32軍の長勇(ちょう・いさむ)参謀長が県庁に島田を訪ねた。牛島司令官の要請で敢然と決戦前の沖縄に赴任した島田に対して、長参謀長は、前知事に対するのとはうって変わって、礼を尽くした。

長からは、敵の上陸が近々に予測されていることから、老婦女子の北部山岳地帯への疎開を急ぐこと、住民の6ヶ月分の食糧を確保することの2点を要請された。

二つとも一人でも多くの県民を救うための緊急課題であり、島田の動きは速かった。その日の午後から緊急部課長会議を招集して、対応策を協議した。そして内政や経済に関わる平時の業務を全面的に停止し、全職員を疎開と食糧確保の二つの業務に専念させることとした。

まず疎開に関しては、北部の国頭(くにかみ)郡の8市町村に、2月中に4万人を移動させ、学校、集落事務所などの既設建物に収容する。また新たな収容施設を建設し、3月には5万人強を移す。

そのために県土木課員を総動員し、移動する住民になじみの深い教職員の一部を疎開の第一線に配置する、という綿密な計画を立てた。それまでに疎開していた県民を加えると、北部への疎開者は15万人に上る。当時の秘書官・小渡信一は、こう回想している。[1,p166]

行政手腕は鮮やかというほかなかったですねえ。・・・

会議は必ず自分で取り仕切り、しゃべり過ぎ、冗漫な意見はピシャリと抑え、幅広い意見を引き出された。結論が出た、となると、すぐ次の議題ですよ。切羽詰まった状況もあって、時間は大切にされました。

長官が来られて一番喜んだのは、警察部長の荒井さんだったのではないでしょうか。それまで何もかも背負わされ、一人苦しんでおられましたから、会議の途中、お二人が額を寄せ、和やかに打ち合わせされるのを見て、我々は「ああ、良かった」と心底、うれしくなったものです。
島田知事と荒井警察部長の二人を中心に、県庁職員が一つにまとまって、一人でも多くの県民を救うための奮闘が始まったのである。


■3.疎開を渋る県民の説得

島田は疎開を促進するため、住民が疎開に積極的でない所へは激務の間を縫って、国民学校を会場に自ら疎開の需要性を説いた。
小渡秘書官は、こう語っている。[1,p187]

当時の沖縄は官尊民卑の風潮が強かったから、勅任官(JOG注:天皇から任命される官僚)の知事といえば天皇陛下も同様です。その地方長官が村へ来るのですから、住民は会場に詰めかけましたねえ。おまけに長官の話がまた易しくて、気軽でしょ。みんないっぺんに好きになった。

講演が済むと民家の実情視察である。あらかじめ訪問先は決めてあるのだが、「小渡君、ちょっと、あの家にも寄っていこうや」と予定外の家にも入っていき、話し込む。疎開を渋るのは、農地や家畜のことを気にしている場合が多いのだが、その様子を聞いてやったうえで、「それでも、危ないから疎開した方がいいよ」と説得する。

飛び込まれた家はあまりの気安さからまさか知事とは思わず、後から分かってびっくり仰天ということが度々あった。

こうした努力の甲斐あって、わずか2ヶ月で9万人強の疎開という大仕事が進んだ。北部への疎開の様子を、当時の担当者はこう記している。[1,p211]

中、南部から北へ北へと戦火を避けて移動する年寄り、女、子供の群れは、西海岸の名護街道と東海岸の金武(きん)街道を埋めた。長々と延び切った人々の列は、昼となく夜となく北へ動いた。

沖縄千年史のどのページにも、これほどもの悲しい風景は見当たらなかっただろう。

■4.「どうか、沖縄県民を助けてください」

「6ヶ月分の食糧確保」も難題だった。当時の保有米は県民消費の3ヶ月分がやっとという状況だったので、特使を台湾に派遣して、米の移入を交渉させた。

しかし、台湾の方でも米軍の侵攻が予想されることから、沖縄に回す米はない、と交渉は難航した。特使からの報告を受けた島田は、2月27日頃、自ら台湾に飛んで交渉に入った。当時、制海権、制空権とも敵に奪われている中で、危険を冒しての出馬であった。

島田には台湾でもその人柄を慕う人がいて、総督府からの払い下げについて何度も援護射撃をしてくれ、そのお陰で3千石の入手ができた。

しかし、輸送船の手当がつかない。総督府の交通局に嘆願した所、前日、同じく食糧難で困っている台湾東部の花蓮港行きの船便を手配した所だが、そちらから譲ってもらうよう頼んではどうか、という答えだった。

相手は、花蓮港庁警務課の江口貞吉課員だった。島田は直接、江口と自ら電話でかけあった。相手が県知事と知って、平課員の江口も驚いたろう。しかし、島田は地位の上下も関係なく、沖縄県の窮状を訴え、「江口さん、どうか、沖縄県民を助けてください」と頼み込んだ。

江口は「せっかく都合した船便なのに」と全身の力が抜け落ちるような落胆を味わいながらも、「沖縄の窮状に比べれば、花蓮港の事情はまだ良い方ではないか」と思い直して、「それでは致し方ありません。どうぞ大事にお持ち帰りください。ご苦労の程お察し申し上げます」と答えた。

島田の真摯な姿勢とそれに応えた江口の善意により、3千石の米は無事、那覇港に届けられた。警察官たちが徹夜で米を船から降ろし、県庁構内にあった武道の練習所・武徳殿に運び込まれた。

道場だけで100坪もある広い建物に天井近くまで米が積み上げられ、それを軍用トラックで各地に積み出されていった。この米によって、多くの県民が飢餓から救われることになる。


■5.「敵さん、なかなか鮮やかだね」

3月23日朝から、米軍上陸の前の空襲が始まった。米艦載機の延べ千数百機による執拗な大空襲が全島を覆った。さわやかな南の島の朝は、たちまち修羅場と化した。

急ぎ登庁した警察部員たちは装備を調え、県庁舎前の緊急用避難壕に待機した。友軍の打ち上げた高射砲の弾片が、びゅんびゅんと音を立てて落下してくる。沖縄各地が空襲にされされているという情報が次々と寄せられた。

「やあ、皆、元気だね。敵さん、なかなか鮮やかだね」と、鉄カブトをかぶった島田が姿を現した。知事の動じない姿に、迎える警察部員たちの顔も和んだ。

翌24日、戦艦以下30隻の米機動部隊が早朝から本島南部の沖合に姿を現し、艦砲射撃を始めた。以後、上陸前1週間にわたって、合計219隻が5100トンもの砲弾を美しい南の島に叩き込んだ。まさしく「鉄の暴風」であった。

島田は職員を数キロ離れたいくつかの壕に分散させ、そこから老幼婦女子の北部疎開、食糧の配給、そして避難壕の整備・構築の指揮をとった。


■6.壕内の生活

島田の入っていた壕は150メートルほどの坑道のような形で、その中に百数十人が入っていた。湿度が高いために、ちょっと動くと汗みどろになる。

その中で、壕を広げるために、掘った土をザルの手渡しリレーで外に運び出す作業が行われたのだが、島田は「よしっ、僕もやろう」と、リレーに加わって、泥んこになってザル渡しをした。そして「壕では運動不足になるから、これは健康のために良い」と言って、皆が気を使わないように務めた。

食事は共同炊飯で、おにぎりとおつゆに決まっていたが、署や村の人々が近くの田んぼからウナギやフナをとってきて知事にもう一品つけようとしたが、島田は決まって少しだけ頂くと、あとは「怪我をしている人にあげて下さい」と回してしまった。伝令に出て怪我をしていた人が、壕のあちこちで苦しんでいたのである。


■7.避難民を救え

4月1日に上陸を開始した米軍は、日本軍の頑強な抵抗に遭いながらもじりじりと南下を続け、24日には首里・那覇地区からの非戦闘員に東南部への非難命令が出された。

南下する避難民の受入体制を整備すべく、27日に南部の市町村長17名と警察署長4名、随行者を含め100人近い人間が壕の中の70畳敷きほどの大広間に集まった。皆、道中の爆撃を避けるために時には地面に這いつくばったせいで、泥まみれの姿だった。

島田は「食糧も壕も不十分なことは万々承知しているが、生死を共にしている今こそ、同胞愛を発揮して貰いたい」と頭を下げた。

また「戦いがいかに激しく、また長びこうとも、住民を飢えさせることは行政担当者として最大の恥」と強調し、芋の植え付けや麦、大豆の収穫を夜間、月明りを利用して行うよう指示した。

会議は6時頃に終わり、市町村長らは艦砲射撃の途切れるのを狙いすまして、それぞれの自分の市町村に帰って行った。住民保護の重責を担って、身の危険をものともせずに戻って行く姿を、島田と荒井は目を潤ませながら見送った。

島田の指示は南部の町村で実行に移された。農民は一層の食糧増産を申し合わせると共に、避難民はどの畑からでも作物を自由に取って食べて良い」と各村で決議した。これによって救われた避難民も多かったと思われる。


■8.島守の塔

5月末には第32軍は首里戦線から撤退し、最後の抵抗拠点である沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)へ移動した。島田は牛島軍司令官と最期を共にすることを決意し、6月8日には県庁を解散して、職員たちを「生きて沖縄再建のために尽くしなさい」と脱出を命じた。

親しくしていた新聞記者が別れの挨拶に来て、「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、出られてもよいのではありませんか」と小声で言った。すると、島田はキッと顔を上げて答えた。「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ?」

軍司令官が敗戦と将兵戦死の責任をとって自決しなければならないように、幾多の県民を死なせた地方長官も、その責めを負わなければならない、というのが、島田の覚悟だった。

牛島軍司令官は6月23日、摩文仁の軍司令部壕で自決し、沖縄戦の組織的戦闘は終息した。その数日後、荒井はアメーバ赤痢で亡くなり、島田は近くの海岸の自然壕でピストルで自決したと見られている。

島田や荒井としては、県民を十分に保護できなかったとの思いであろうが、20万人にのぼる県内外への疎開、台湾米の移入などで多くの県民が命を救われたのは事実である。

摩文仁の丘には、50もの慰霊塔、慰霊碑が林立しているが、その中でいち早く建てられたのが、島田、荒井を初めとする戦没県職員458柱を合祀する「島守の塔」である。

沖縄戦の6年後、傷跡がまだ生々しい昭和26(1951)年に県民の浄財を集めて建立されたもので、島田、荒井を筆頭とする県職員への沖縄県民の感謝の気持ちが込められている。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(196) 沖縄戦〜和平への死闘
勝利の望みなきまま日本軍は82日間の死闘を戦い抜き、米国の無条件降伏要求を撤回させた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog196.html

b. JOG(643) 「沖縄県民斯ク戦へり」(上) 〜 仁愛の将・大田實海軍中将 玉砕寸前の海軍司令部から「県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」と電文が発せられた。
http://archive.mag2.com/0000000699/20100411080000000.html

c. JOG(644)「沖縄県民斯ク戦へり」(下)〜「県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ」との祈り
大田實中将の電文に感銘した多くの人々が、沖縄の為に尽くした

http://archive.mag2.com/0000000699/20100418000000000.html

b. JOG(651) 沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(上)
戦火の近づく沖縄から県民を疎開させようと、警察部長・荒井退造(たいぞう)は奮闘した。
http://archive.mag2.com/0000000699/20100606080000001.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』★★、中公文庫、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4122047145/japanontheg01-22/


■前号「沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(上)」に寄せられたおたより

■豊さんより

島田知事は当時の内務大臣から「その志、その行動、真に官吏の亀鑑と言うべし」とたたえられた真に傑出した官僚であり、小生の大いに尊敬する人物です。

今回の記事を読んでも人間の真価は平常時ではなかなか分からないもので、非常時にあって初めて本音が見えると言う事を思い知らされます。高位高官の人間が必ずしもその職責をまっとうせず、我先に戦線を離脱したケースは多い。エリートと呼ばれそれなりの敬意と待遇を受けながら肝心の所で卑劣な人間性を暴露した唾棄すべき人間の多い中で島田さんのような人の存在は正に一服の清涼剤です。

押し並べて戦前、戦中の高位高官には後世の参考となる人は残念ながら少ない。このメルマガでは是非島田知事のような自らを犠牲にしても職責を果たし、現在では忘れられた人々を積極的に紹介して頂きたいと考えます。日本人も捨てたものではないと思いたいのは私だけではないでしょうから。


■編集長・伊勢雅臣より

今後とも、島田知事のような志ある人物を発掘、紹介していきます。

読者からのご意見をお待ちします。
以下の投稿欄または本誌への返信として、お送り下さい。

掲載分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P36920582

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◎Japan on the Globe?国際派日本人養成講座
 のバックナンバー・配信停止はこちら
http://archive.mag2.com/0000000699/index.html
山本 常朝
講談社インターナショナル
¥ 1,890
(2005-04)

| 公務員 | - | - |
霞が関にお礼の電話って滅多にないのです
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100205/212629/

山田 何年か経って関連する部署に配属された時に、困っている方を無料で積極的に診察してくれる医療機関に対する経済的インセン
ティブを考えたのです。シェルターの職員が執筆した本で紹介された時も嬉しかったのですが、実際にその制度を使った方からお礼の
電話をもらった時の喜びは忘れません。公務員になって良かったなと。

 1本の電話が一番の思い出というのも寂しい気がしますが(笑)、霞が関にお礼の電話って滅多にないのです。それも自分で考えて
作った制度だから嬉しかった。

佐藤 1本の電話や、たったひと言で、元気にもなれば、逆もあるものです。お礼を言ってもらえると、本当に役に立っているのが感
じられて嬉しいですね。

 思い出に残っている小さな仕事は、まだまだありそうですね。ぜひ、教えてください。

山田 では、とっても小さな話をさせていただきます。

 私の厚生労働行政は、墓地行政でスタートしました。配属された時は正直がっかりでした。新聞の一面を踊っている案件を担当して
いる同期を羨ましく思ったものです。

佐藤 最初の仕事が墓地行政とは、気持ちが沈んでしまいますね。でも、「お墓がない!」という映画がありましたね。そんな映画が
できるほど、お困りの方は多いのかなという気はしていました。

山田 多分ご存じないと思いますが、お墓には「無縁墳墓」というものがあります。「無縁墳墓」とは、承継者がいなくなり、参拝者
もいなくなり、お墓だけが残った状態です。お寺にしてみれば移動させて新しいお墓に作り直したいでしょうが、自由にお墓を移動さ
れても困るので、一定のルールを設けています。これを「無縁墳墓の改葬手続」と言います。

 当時は、全国の新聞に3回「関係者がいれば申し出てほしい」と公告しなければ移動してはならないというルールでした。そのため
の費用は数百万円かかり、収支に合いません。また、新聞に載せたところで読む人も少なく、公告の実効性も低いものでした。
お墓で飛び跳ねて喜んだ

佐藤 確かに、無縁墓墳に関しては告知するにもやり方が難しいですね。どのようにされたのですか。

山田 お墓不足なのに、全国で無縁墳墓が増えていました。無縁墳墓の改葬手続きをどのように実態に合ったものにするか、当時の係
長と2人で考えて、「墓所に立て札を1年間立てて、縁者に申告してもらおう」という手続きに変えました。効果としても、コストとし
ても、かなり改善されたと思います。

 社会人になって1年目で、自分で考えたものが制度となる喜びでした。お墓参りに行って、実際に立て札が建っていたのを見たとき
は嬉しかったですね。大学を出てすぐの若者がお墓で立て札を見て飛び跳ねていたのですから、気持ち悪い光景だったと思います。

 これは本当に小さな話だと思いますが、自分で考えて制度に反映するという公務員の仕事の醍醐味を初めて感じた時でした。

| 公務員 | - | - |
戸籍係OB
592 非公開@個人情報保護のため sage 2008/05/03(土) 21:12:09
東京都内の、行旅死亡人がやたらと多い某区の戸籍係OBです。
あまりにもコロンコロン死んでいるので、警察も福祉事務所も戸籍係も、行旅死亡人関係の
仕事はすっかり手慣れてしまいました。
必要書類の雛型などが書かれた係内マニュアルがあって、新人でも本籍判明報告等の事務は
ひととおり処理できるようになっています。

あるとき、京都市内の某区から、当区本籍人の死亡報告が送られてきたのですが、 書類の
書き方はメチャクチャ、添付書類は足りない、まるでベテランの点検を受けていない新人作成の書類のようでした。
受理地に電話して小一時間問い詰めたのですが、要するに「行旅死亡人関係の事務など扱った経験がないので、やり方を誰も知らな
い」様子でした。
仕方が無いので、警察扱いの段階から書類の書き方を教えてあげる羽目になりました。

少しあきれてしまったのですが、先輩に
「うちが行旅死亡の件数多すぎるんだよ。そんなのは滅多に無いのが普通だよ。京都市内じゃ、着倒れはあっても行き倒れは無い
よ。」
と言われました。
真面目に考えれば笑える話ではないのですが、これには思わず笑ってしまいました。

あるとき、隣の区の戸籍係の人に会ったとき、
「おたくに住んで(?)いるホームレスが、フラフラ越境してきて、うちの区内で死んだ。仕事の進め方が分からず、本当に困った。
大迷惑だ。」
と言われました。 そこで、
「そういうのは区境までズルズル引きずってこっちに置いといてください。うちなら 手続きはバッチリですから。」
と言い返してやりました。

戸籍係にいた頃は、こんな笑えない話で笑ってしまい、冗談じゃない話が冗談になるという、何とも罪深い日々でしたが、行旅死亡人
が多い自治体の戸籍係の実情なんて、こんなもんです。

| 公務員 | - | - |
どこの障害ですか?
655 名前:おさかなくわえた名無しさん メェル:sage 投稿日:2009/06/03(水) 20:51:41 ID:yQ2moQAk

今日スーパーに買い物に行ったんだけど障害者駐車場に若いDQNが爆音上げながら斜めに駐車してきた
ちょうどそこに巡回して来たパトカーが来てマイクで「障害者の方大丈夫ですか?店内にご案内しましょうか?」って話しかけてた
車から降りて当然のごとく普通に立ってるDQNに
「歩けるのですね。どこの障害ですか?頭ですか?」ってさらに話しかけてた
DQNはなんかしゃべったようだけどすぐ車に乗ってどっか消えて行った
女子高生数人がパトカーに向かって拍手してた
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